自分を「責める」の反対は「大絶賛する」

Pocket

 学校に行き渋る子どもにラクに対応出来た! 

今朝は小学1年生の次女が玄関で座ったっきり動かなくなってしまいました。

インフルエンザ脳症により高次脳機能障害という障害が残ってしまった次女は、私の「あたりまえ」は通用しないことが多いです。

「お友達を待たせているでしょ。」

と言っても、一点をじっとみつめたまま、動こうとしない次女。

昔の私ならこういう場面では子どもが自分の思い通りに動いてくれないことにイライラしていたと思います。

けれど、今日は冷静に彼女をみつめて対応することが出来ました。

子どもにイライラしそうなときにイライラしない自分でいられる。

これは、とっても嬉しいもの。

思わず「私、すごおぃ!よくできたねぇ。さすが!!!」

と自分で自分を大絶賛してしまいました。(笑)

 なぜ、イライラせずにいられたのか? 

今朝、なぜ、イライラせずにいられたのか?振り返ってみました。

① 自分の「~すべき」ルールを客観視していた

まず、自分の「お友達を待たせるべきではない」というルールを客観視していました。

イライラの感情は、自分の「~すべき」ルールが破られたときに発生します。

それなら、自分が持っているルールに気づくのが第一ステップ。

そして、「それは本当に守るべきなのか?」と自分に問うた時、

「次女には次女の理由があるのではないか?」と子どもの気持ちに寄り添う余裕が生まれたのだと思います。

② お友達ではなく、子どもの気持ちを優先しようとしていた

次に、いつもの「いい人」であろうとする自分なら、「待たせているお友達に悪い」という思考が先に立って、お友達を嫌な思いにさせないために子どもを動かそうとしていたと思いますが、子どもの気持ちを優先しようとしていました。

もちろんお友達を待たせるのは悪いことではあるのですが、そのために子どもを無理やり動かそうとするとき、子どもの気持ちが置き去りにされてしまいます。

無理やり動かしてもこじれるだけ、ということも過去に散々、経験済(苦笑)

急がば回れ、戦法です。

➂ 子どもが自ら動くのを待っていた

「お友達に先に行ってもらって1人で行くのと、お友達と一緒に行くの、どっちがいい?」

と私が尋ねると、次女の指が「どちらにしようかな」の感じで左右に動き出しました。

彼女自身も迷っているようです。

ですので、彼女が自分で決めるまで「待つ」ことにしました。

「自分で「よし、行く」と決めないと、ママが言っても動けないんだよ。」とだけ言って彼女の視線に目を合わせる時、冷静な自分を感じました。

するとしばらくして、「一緒に行く」と言ってようやく立ち上がった彼女。

それでも足取りはノロノロ。

「そこまでママも一緒に行こう」と手をつないで歩きだすと、明らかに彼女の気持ちが「嬉しい」という気持ちになっているのを感じます。

気持ちが切り替わっていると分かったので、

「あ、玄関開けっ放しできちゃった。ここまででいい?」

と私が聞くと、「うん」と答えた彼女は私の手を放して、お友達と一緒に歩き出しました。

二人の後姿が見えなくなるまで見送っている時、

「今日は、イライラせずに対応出来た。私、すごおぃ!よくできたねぇ。さすが!!!」

と自分で自分を大絶賛している自分を感じたのでした。

 きっと私は今日のような自分になりたかったんだ 

昔の私は、思い通りに動いてくれない子どもを「私を困らせる子」と考え、

自分自身が「振り回される親」だと感じていました。

おそらく病気のせいで困らせている子どもにイライラしたくないのに、私の言うことを聞かないことで怒り、ヒステリーを起こす。

子どもに優しく出来ない自分が嫌で、自分を責めてしまうから、自分のことがどんどん嫌いになっていきました。

だから、きっと私は今日のような自分になりたかったんだ、と思います。

自分を「責める」の反対は「大絶賛する」、ではないか?

自分とは別の自分であるインナーパートナーさん(自分の思考・感情・身体)を私自身が大絶賛出来たとき、きっとインナーパートナーさんは喜んでいる。

自分に優しくする、ってこういうことかな?と思った朝の出来事でした。

【 編集後記 】

「何書こうかな?」と思っていたら、ネタは降りてくるものですね。自然に(笑)

Pocket

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。